OSHIMA ISHI

牛久大仏

大島石

静けさの裡に宿す、永遠の青。
青の御影。
瀬戸内の海が磨いた、気高く強い石。

多くの島が浮かぶ、瀬戸内の海。
穏やかで美しい景観ながらも、
激しい潮の流れをその裡に秘めています。
島々の海峡を縫う海流は、時に渦を生み、
日に幾度もその向きを変えます。
季節により、朝夕の光により、
この海はさまざまな青を見せてくれます。

静けさの中に力強さを湛えたその青は、
留められない時の流れを想起させます。
それはまるで、
移り変わりながらいつか終わりが来る、
人生を映すよう。
終わりを知ると同時に、
永遠を宿す瀬戸内の青が、
きらめく波間に揺れています。

その石を、大島石といいます。
瀬戸内海に浮かぶ大島で産出された、
国産御影石の最高峰。
青みがかった上品な色合いと、
目が細かく、
肌理(きめ)が美しい石目から、
「青の御影」と呼ばれています。
年月を経るごとにその青みが強くなり、
深みのある風格が増していくことが
最大の特徴。
見る人に気品を感じさせるため、
「石の貴婦人」とも称されます。

見た目の美しさだけでなく、
その質の良さは昔から知られていました。
石質は、細粒で堅牢。
吸水率が低いため、風雨にさらされても、
その深い艶を保ち続けます。
静かに、揺るぎなく、時を超える力強さ。
手に触れるとその石肌は、
波立つ心を鎮めてくれるようです。

大島石は、
古くは鎌倉時代建造の五輪塔にも
用いられました。
江戸時代には今治城に、
明治時代には皇居改築の礎石として、
さらに国会議事堂、出雲大社の鳥居、
高野山金剛峯寺金堂など、
日本を象徴する建築にも
その姿を残しています。

その優れた品質と気高さから、
西日本では
「墓石といえば大島」と言われてきました。
長い年月を経ても
変わらぬ輝きを保つことから、
代々にわたって受け継がれる墓所に
ふさわしい石とされています。

司馬遼太郎や正岡子規をはじめ、
多くの偉人たちも大島石を選びました。
日本各地の墓所で、
今も深い存在感を放つこの石が、
ここ牛久の地に迎えられ、
新たな祈りの場として息づきます。

静寂の時間に、優しかった故人を想う時。
海の青を映すその石は、
私たちに語りかけます。
「この方の歩んだ道は、
とても美しいものでした」と。
波にたゆたうような安らかな眠りが、
永遠の青に抱かれて満ちてゆきます。

今 治 城

大島石のお墓

Grave of Oshima Stone

日本

MADE IN JAPAN

庵治石と並び日本を代表する最高級石種。
青みを帯びていて硬く、色あせもない。
墓石として建立した際の凛としたたたずまいから、
「石の貴婦人」という異名を持つ。

大島石

赤坂離宮

大島石

今から約400年前、かの徳川家康が藤堂高虎に、伊予の国今治への築城を命じたことから大島石の歴史は幕を開けました。大変な困難を伴う大事業を任せられた高虎は、秀吉の大阪城築城で腕を磨いた石積名人・治衛門を石積棟梁の一人に任命しました。城は1604年(慶長9年)に完成しましたが、彼らは石垣だけでなく秘密の抜け穴も造ったので、藩主より情報漏洩を封じるための処刑命令が出されました。その難を逃れた治衛門は大島に辿りつき、そこに良質の花崗岩が埋もれているのを知り、自らの技術を生かして切り出したのが、大島石のルーツであると言われています。
代表的な施工例は、1894年(明治27年)海軍省、1895年(明治28年)奈良帝室博物館、1906年(明治39年)豊臣秀吉墓所、1908年(明治41年)大阪心斎橋、1911年(明治44年)四条大橋・七条大橋、1920年(大正9年)大阪図書館、1931年(昭和6年)高野山金剛峯寺金堂、1933年(昭和8年)西郷隆盛銅像台、他にも、国会議事堂・赤坂離宮・日本銀行・出雲大社大鳥居・東宮御所・難波橋・戎橋・道後温泉・石鎚神社大鳥居・北海道釧路港など多数使われています。また、司馬遼太郎や正岡子規、秋山好古など著名人のお墓にも多く使われています。

大島石